2014年11月11日

東日本大震災から3年8ヶ月

今日で東日本大震災から3年8ヶ月になります。
先月はまさかの忘れるという失態を犯し、しかも何故かそういう時程アクセス数やら検索が多いというね・・・
それにしても、こういう事って3年ぐらいしたら「もう大丈夫だろ」って思われて支援やら関心やら無くなるものだけどまだまだチャリティだとか続いてるのは有難いと思う。
必要としてるところがいまだにあるのは復興が遅いからだけど、あの規模の災害じゃ復興が遅いのもしょうがないのではとも思うようになってきた。
まぁそれを差し引いても遅いとは思うけどね。
最近の話題と言えば最終処分場の事かな。
揉めて当然だけど、コロコロ変わる政府の対応はどうなのよ?
福島処理の提案も出てきてまだまだ長引くだろうね。

さて、今回は続き物再開です。

【東日本大震災時の備え4】

名取駅周辺で父親と合流し車で仙台へ向かったけど長かった。
まず母親に父親と合流した事を報告する為に電話。
避難所指定の学校に避難しているとの事だったので学校で合流する事に。
姉から連絡があり、この時は福島に住んでたんだけど断水だけで電気は大丈夫だからとの事で何か重要な情報を得たら連絡して貰う事にした。
妹とも合流したかったので連絡したら「津波きた」と言われてビックリした。
この時は多賀城に住んでたんだけど、この時初めて多賀城に津波が来た事を知った。
マンションの住人皆で上の階に避難してるとの事だったので「1人で行動しないように」「何か状況の変化があったら連絡する事」「充電無駄遣いしない事」「こっちは学校に行く事」を伝えて電話を切りました。
電話が中々繋がらなくて充電が減ってしまったので通勤鞄に用意してあった電池式充電器で充電しました。
ホントに準備しててよかった。
21時ぐらいに仙台の我が家へやっと到着。
職場出てから4時間半ぐらい掛かった。
父は懐中電灯を持っていなかったけど、母がドアを開けてすぐのところに置いていてくれました。
これ程までに滅茶苦茶なのは初めてだと衝撃を受けました。
物という物が散乱し、足の踏み場が無かったです。
まずずっと我慢してたトイレに直行。
水が流れなくてこの時断水を知った。
我が家が断水してるとは思ってなかった。
そして防災リュックを置いている場所を確認した。
防災リュックが無かったので母親が持っていった事を確認。
強めの余震が続くので手分けして物資をかき集める事にして父に探す物を言ったんだけど、家のどこに何があるか全然分かっていなかったので非常に困りました。
家の事を全部奥さんに任せてる世の中のお父さんはちゃんとどこに何があるか分かるようにしてた方がいい。
しょうがないから自分の貴重品とケータイの充電器、見えるところに置いてある飲み物を回収するように言って、私は自分の部屋にバッグを取りに行きました。
部屋もタンスが倒れてたり物凄い事になってました。
貴重品とケータイの充電器をバッグに入れて戻り、デカいバッグを父に渡してそこに回収した物を入れて貰っている間に、押入れにストックしてる電池とすぐ取れるところにあったお菓子を回収しました。
母が持っていった防災リュックに電池も食料も一応入っているんだけど、いつ家が崩れて入れなくなるか分からないし、ケータイが中々繋がらないから充電用に電池はいくらあっても足りないと思ったのと、飲み物と食料も基本的に多ければ多い程いいから確保した。
車に戻って、忘れ物が無いか確認すると母のケータイの充電器を回収していませんでした。
父と一緒の場所に置いてあるのに「何で一緒に回収しないの!」と怒りました。
確かに「自分の貴重品」とは言ったけどさぁと呆れながら母のケータイの充電器を探しに行きました。
こういう時臨機応変に対応出来ないと困るよね。
ケータイの充電器を回収したら、また大きく揺れたので「もうヤバい」と家を出ました。
学校に駐車出来るか分からなかったので、歩いて行く事にしました。
それぞれ懐中電灯で照らしながら学校へ向かったんだけど、ホントに暗くて見えなかった。
もう結構時間が経ってたから歩いてる人には1人しか遭遇しなかった。
学校に着くと校庭は車でいっぱいだったから歩いてきて正解でした。
体育館に入ったら、人がビッシリ体育座りしている状況でした。
「この中から探すのか」と母を探し始めたら、入口付近に居たのですぐに合流出来ました。
見つけやすいようにと入口付近に居たようです。
「○○いますか!」と大声で探せるような状況じゃなかったのでこの選択は正しかったと思います。
取りあえず、この後どうするかについて話し合いました。
避難所に指定されている学校なのに毛布がたったの30枚ぐらいしか無く、それらはお年寄り優先に配布済み。
この体育座りでビッシリ状態では寝る事も出来ないし、暖房もなくて寒いし、体育館のデカイ照明が落ちてくるんじゃないかと心配で、車に乗って倒れてくる物がない校庭に居る事が安全という結論に至りました。
父が車を取りに行っている間に、母に姉と妹の状況を説明しました。
父が到着して車に乗り、校庭の空いてるところを探して駐車してラジオを聞きました。
「荒浜に200体ぐらいの遺体」と聞いて驚き、予想以上の深刻な事態になっているとようやく分かりました。
ですが、同じ情報の繰り返しだったりで全容はまだ分かっていませんでした。
ネットの方が情報あるんだろうけど、ケータイは全然繋がりませんでした。
ワンセグも充電温存の為に見なかったです。
親戚関係に電話しても繋がらず、ガソリンもどうなるか分からないのでエンジン切って寝る事にしました。
このガソリン温存は後から本当にやっててよかったと思った。
まさか給油出来ない状況になると思わなかったからね。
ですが、非常に寒くて寝れたものではなく、家に毛布を取りに行き、その時に家で普段使っている電池式ラジオを回収しました。
防災セットにもラジオは入っているんだけど、車の中で探すのが大変だったので普段使ってる方を使う事にしました。
学校に戻ってきて私と父は寝る体勢になりましたが、母は眠れそうにないとの事で持ってきた電池式ラジオを聞いていました。
昼から何も食べてなかった事を思い出しましたが、この先食料がどうなるか分からなかったし、そこまでお腹が空いている訳じゃなかったので何も食べませんでした。
センターから何度も着信のお知らせが鳴るので結局眠れず、姉と妹から何度も着信お知らせがきてるんだけど、何度かけても繋がらなくて地震直後より繋がりにくくなってる感じでした。
特に津波が来たと言ってた妹が心配で結局多賀城まで迎えに行く事にしました。
夜遅かった為か、道路はそれほど混んでいませんでした。
途中、道路が濡れた跡があったのでここまで津波がきたんだと分かりました。
道路を進むと冠水で通行止めで、まだ引いてない事にビックリしました。
交通整備中の警察官に別の道は大丈夫か聞いても全然通れないとの事で諦めて帰ってきました。
学校の校庭はもう車が密集していたので、余震がきたら車同士ぶつかるかもしれなかったので、近くの店のガラガラの駐車場に停めました。
気が付けば、時刻は0時を回っていました。
まさかこんな大地震が発生し、我が家から避難しなければならない事態になるなんて思っていませんでした。
くるくると言われてる宮城県沖地震でも震源地が遠いから我が家から避難する事にはならないだろうと思ってました。
この時は3日もすれば元通りの生活が出来るだろうと思っていました。
まだ情報不足で沿岸部が大変な事になってるのは分からなかったし、中心部はほとんど被害無いようだったし、我が家近辺も建物の倒壊や道路が崩れているところもありませんでした。
翌日から過酷な日々が待っているとは予想もせず、何とか眠りについたのでした。

自分の家のどこに何が置いてあるかぐらいちゃんと分かってた方がいい。
物資確保は多過ぎて困る事は無いと思う。
津波襲来間近で走って逃げなきゃいけない状況だったら、物資の重さで走るの遅くなって逃げ遅れる危険性はあるかもしれないけど、そうじゃない状況なら確保できる時に確保しておくべき。
電池も大事。
今はこの震災の事があったから避難所等の備えもそれなりになってると思うけど、基本的に毛布だとか様々な物資は自分で用意してた方がいい。
想定以上の人が避難したら足りなくなり、自分の分が少なくなるとかお年寄りや子供優先で全く貰えないという状況も出てくるだろう。
凍死の危険もあるので無理に寒さ我慢してガソリンを温存をする必要はない。
まず今この時生き延びる事を第一に考えた方がいい。
我が家は3人いい大人だったから毛布だけで何とか我慢出来たけど、小さい子供がいる家庭とかは我慢しない方がいいと思う。

今回はこんな感じで終了。



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