今日で東日本大震災から2年3ヶ月になります。
前回の続きです。
【東日本大震災以前の防災意識と対策2】
前回は幼少の頃は防災意識や対策は微々たるものだったというところまで書いたけど、それが変わったところについて書きます。
初めて地震による被害やその恐ろしさを知ったのは阪神大震災。
まだ子供だったし、地理的にこっちの方は被害が無かったのもあって正直実感は無かったね。
テレビで流れる映像にビックリはしたけど、別世界の話のようだった。
建物の崩壊具合とかが、戦地のようだと思った記憶がある。
でも、子供だったから日にちが経つにつれて見たいアニメが特番で潰れて見れなかったのに文句言ったりしてたよ。
親に大変なんだからそういう事言うんじゃないと怒られたけど。
亡くなった方の名前がずーっとテレビで流されてたのが印象に残ってる。
学校で募金活動が始まったり、授業でもこういう災害が起きるとどんな影響が出るかとかいうのやったな。
流通が悪くなって野菜が高くなった記憶がある。
ニュースは子供でまだあまり見てなかったから、どれぐらいこっちでやってたかはよく分からない。
この時、学校で「他人事じゃないんだぞ。宮城県沖地震が起きるんだからな」と先生に脅されたなぁ。
それでそういえばそうだなぁと思って、親に宮城県沖地震もこんな感じだったのかとか聞いたような気がする。
で、防災意識は高まったね。
我が家でももっと備えようという話になり、取りあえずで用意してた小さな防災リュックをやめて、野外活動とかで使った登山用の大きいリュックを防災リュックとして使う事にして、水や食料、懐中電灯といったものを入れてまともな防災リュックがこの時我が家で完成した。
阪神大震災の後あたりからだったかなぁ?
震度1だろうと地震がある度に「宮城県沖?」と必ず聞くようになった。
それから特に大きい地震もなく、大掃除の時に防災リュックをチェックして大体賞味期限が切れてて買い替えたりしてた。
やっぱりというか、まだ大きい地震の実感がないから防災リュックのチェックも頻繁にしてなかったし、普段は簡単に取れないところに置いてあって非常用持ち出し袋という認識は無かったな。
そんな甘い考えを変えた地震が、2003年5月26日の宮城県沖地震(宮城県北部沖地震)だった。
1996年の宮城と秋田境付近の地震は殆ど記憶に残ってないんだよね。
栗駒山で震度5だったようだけど、私が住んでるところでは震度2か3ぐらいかなぁ?
ホントに覚えてないや。
2003年のは鮮明に覚えてる。
私は家にいて夕食を食べ終えてパソコンを使ってた。
「あ、地震」と思ったら、今まで感じた事のない揺れに驚き、「宮城県沖地震がついにきた!」と思った。
その頃、自分のスペースというのが学習机しかなかったから、本棚増設したり天井まで物を積み重ねていたんだけど、ありとあらゆるものが降り注いできたよ。
当時妹と2段ベッドを使ってたので1段目に潜り込んだ。
妹が滅茶苦茶怖がったのを覚えてる。
震度5の地震を初体験。
マジで怖かったね。
結果的に想定している宮城県沖地震ではないという事が分かって、「え、これより強いのがいつか起きるの・・・」と恐怖した。
地震を舐めていたというか、震度5なら頭守って逃げれば大丈夫レベルだというのが分かったけど、将来起きるであろう宮城県沖地震の規模が想像出来ない未知レベルな事に不安を覚えた。
その日、散らかった物をそのままにしておけないので片付けたら確か翌日に余震があって、机に並べてたプラモが再び倒れて頭にきたので箱に仕舞った記憶がある。
この時から私の防災意識は一気に高まった。
すぐに防災リュックチェックして、案の定賞味期限が切れてたからすぐ買い換えた。
天井まで物を積み上げるのをやめて、机の下に置く事にした。
パソコンに物が降り注いだから、壊れてないか心配だったけどパソコンは無事だった。
テレビで防災特集とかやったのを見て、「頭守って出口確保」を覚えた。
それからは震度1だろうと必ず出口確保するようになった。
その時は怖かったんだけど、少し経つと別にそうでもなかったかなと思った。
当分大きい地震は起きないだろっていうのもあったし。
とにかく、怖がってた妹の姿が強烈に残ってて「妹を守らなきゃ」という気持ちが強くて、妹を守る為に防災に興味持った感じだった。
もうちょっと書きたかったんだけど、ちょっと時間が無いので今回はここまで。